お猿の戯言 homosapiensaru's babble


2008年9月30日[火] 路地裏の密かな愉しみ


今、山牛蒡が美しいのを知っていますか。この花の咲く季節になると普段みすぼらしい山牛蒡が俄然愛おしくなる。この花は、画家の押江千衣子氏が絵にしています。茎の薄桃色と花びらの白に限りなく近い薄クリーム色とその中心にある雌しべの緑色のコントラストが愉悦。花を支える茎たちのそれぞれの出方(つき方?)が快活でいい。先生の質問に答えもわからず勢いで元気よく手を挙げてしまった小学生の様でかわいい。その無邪気さが愛おしくなってしまう。絵にしたくなる気持ち、とってもよくわかります。

じっと眼を凝らすと自然の営みがそこかしこに視えてくる。宇宙はそっと呼吸している。


以前、あるサイトで「美大教授が喝!」という日記を連載していました。その中に、「路地裏の密かな愉しみ」と題して住宅街の路地裏にひっそりと棲息する植物たちが気になるという記事をアップしたことがありました。
それぞれの住宅の玄関や庭先に、さまざまな植物たちが根付いている。その家で世話する人の趣味が反映されているのかいないのかわからないけれども、植物たちによって家々の佇まいが見え隠れするのが面白いのです。勤務先の最寄り駅から、研究室にたどり着くまでにいろいろな植物をみて廻っています。通勤の途中彼らを見ながら和ませていただいています。

→ http://colorful.cafeclip.jp/

いつものようにきょろきょろとしながら歩いていると、ある家のほんの少し外れたブロック塀の前に、俗名「三時花(サンジカ:午後三時になると花が咲くかららしい…)」というスベリヒユ科の「ハゼラン(爆蘭)」が、かいがいしく咲いているのを発見し愛しく眺めたのですが、その話をアップした数日後に何故かきれいに抜き取られてしまっていたのです。この植物は、家の人が意識的に植えたものでは明らかにないし、一見雑草なのですが、立ち止まってよく見ると愛らしく可憐な植物なのです。根元のその引きちぎられた切り口を見て胸が苦しくなりました。一体誰が…という気持ちでした。もしかすると、僕が玄関先で執拗に写真を撮り続けている様子を見て、その変質者振りが怖くなり、二度とこの男を近づけまいとそのお家の人が引っこ抜いてしまったのだろうかとも考えました。いずれにしても、元を正せばハゼランを傷つけてしまったのは、その植物を愛した当の私が原因なのかもしれないと思っては、ひとり悲しくて辛かったことを思い出します。今、以前に近所の駐車場のアスファルトの隙間に咲いていたスミレにもこういうことがあったのを思い出しました…。涙。



それが、それから一年もしない最近になって、気がつくとその周囲にハゼランが繁茂していたのです!植物のエナジーを強く感じました。その姿を目にしたときのうれしかったこと!「おお、お前たち帰ってきたかぁ!」と心の中で思い切り叫び、手を振っていました。もう二度と会えないと思っていた旧友と邂逅した気分でした。植物は裏切らないなぁ。なんて素敵なやつらなんだ!至福!



2008年9月23日[火] パラレルワールド&聖と俗の使者たち


個展のための作業をしようと研究室に向かうが、その前にまた美術館に向かう。
東京都現代美術館だ。清澄白河から歩く。同時開催のジブリ展は夏休みも終わっているのに相変わらず混んでいる。その谷間にひっそりと咲く隠花植物のようにパラレルワールドが広がっていた。
それぞれが勝手ながらどれもが気が置けない同居人が集まって開いた展覧会というような感じで会場全体に可笑し味があって良かった。とても興味深く観たのだが、真面目さが足りなかったのか作品とアーティスト名が重ならない。中でも特に、巨大な緑の芋虫のようなものと出口近くにあった映像作品に微笑んだ。

自分は、常にパラレルワールドに魂を置きっ放しにしたままなのに、どうもこのところ現実世界に振り回されていてそこに戻れないでいる。ちょっと焦る…というか、たにぐちっ!かなりやばいぞっ!

→ http://www.mot-art-museum.jp/

ⓒHugues Reip
ⓒHugues Reip

さて、ちょいと刺激されたら、無性に「アネット・メサジェ:聖と俗の使者たち」が気になり出して、またまた美術館のハシゴである。六本木ヒルズの森美術館へ向かう。

グーである!彼女なりの世界の解釈の仕方が素敵だ。社会風刺でもあったりと、社会派な一面もあるのだが、全体に貫かれているのは彼女のポエティックに世界を解釈し再構築するセンスで、暗さの中に暖かみがあり、ユーモラスな笑顔の裏に毒がある。特に興味深かったのは、ピノキオが(クジラじゃなく)サメのお腹の中に閉じ込められたというお話にインスパイアされたインスタレーションだった。会場に設置された椅子に座り、じーっと眺めていた。

上手さとかテクニックだとかを超える表現。どこかたどたどしい言語を操りながらも真意は人々にどことなく染み込んでいく。何人も目指す頂上はひとつである。決してそれぞれの頂上がある訳ではない。ぼくはぼくのルートを辿って頂上を目指す。頂上に向かうこと。それはすべての人に与えられた平等であり、どのルートを辿るかもまた自由だ。

今日のキーワードは、「ポエム」だ。
生きるっていうことは、「宇宙」を解釈していくことだと感じている。そんなことを思い出させる作品たちに巡り会った。

→ http://www.mori.art.museum/jp

ⓒAnnette Messager「残りもの(家族II)」2002年
ⓒAnnette Messager「残りもの(家族II)」2002年


2008年9月20日[土]京橋へ


所用が有り、京橋の後輩のやっている骨董店「花径」に出向く。この店主はグラフィックデザイナーから転向して骨董屋を始めた変わり種(?)である。狩野道長(?忘れた!)の植物の写生画の巻物を見せてくれた。落款がこれまでに在るものと合致しないので贋作かもしれないと言っていたが、そのものの出来映えは精緻で優れたものであった。店主の趣味は女性ならではの安心できる優しさがありお店に並んでいる品物はどれも素朴な品のよさがある。

→ http://www.kakei-jp.com/

宗達と出逢う!
帰り掛けに松屋銀座で開催中の「白洲次郎と白洲正子展」の招待券をいただいたので、そのまま銀座へ向かった。連日混雑しているそうだが、残念ながら期待はずれで自分には面白くありませんでした。しかし、ありがたいことに俵屋宗達の掛け軸「鷺図」「鵜図」「白鷺図」の三本が展示されていた。おお!GOD!感涙。
もうひとつよかったのは、「十文字絞り旗指物」桃山時代の染め物だ。十という文字が白抜きにされた絞り染めで、地の朱い色が何とも美しかった。あれは額装を変えたらもっと素敵になるなぁ。

玉川温泉岩盤浴!?
松屋銀座を出て、車を停めてある場所へ向かって歩いているとふと小さな看板が目に入った。そこには、玉川温泉の岩盤浴が銀座のその場所で入浴できるとある。なんと!こんな近場にあったんだ!と驚きながら金額を見ると、30分で3,800円とある。さすが銀座料金ね。しかも、昨日しっかりと体験済みの私には30分じゃ効かんだろうといぶかりつつも、温泉を利用しなければ、60分でいいかぁ、だと7,600円。新幹線の往復の料金をを考えれば安いかもな…などと道端に佇みセコイ算段をし始めていました。しかし銀座にあるんですねぇ。

同期の桜たちとの邂逅
パーキングの近くに、コバヤシ画廊があることに気づき久しぶりに訪ねると、「赤塚佑二展」ではないですか!というのも大学の同期の版画科の知人で、おお久し振りに新作とご対面かぁ!ラッキー!とひとりほくそ笑んで扉を開けたらびっくり!水戸の友達夫婦にばったりご対面である!世界は狭いというか、縁が深いというか、不思議なものを感じてしまった。会うなり挨拶もそこそこに二人ともが口々に奥の部屋の作品を観てみなと言う。
赤塚氏の作品は国立近代美術館にも所蔵されており、画家として若くして成功している。
近代美術館の常設を観たとき、彼の作品が展示されていたことがあったが、その隣に並んでいた作品はゲルハルト・リヒターのものだったが、全く負けていなかった。しかしそんな彼の近作の画面からはどうも思い悩んでいるオーラを感じてしまっていた。彼らも同様のことに気づいていて、それが今度の小品で抜けそうだと自分のことのように喜んでいる。自分も早速観てみると確かに何か心くすぐられる何かが潜んでいるのが分かる。赤塚氏にとっては迷惑なことかもしれないが、こういうことって何だかうれしいものだ。

→ http://www.gallerykobayashi.jp/

そして六本木へ
その後、お茶を飲みながら仕事の話やら四方山話などを交わし、六本木のギャラリーに向かう。
やはり大学の同期の版画科の渋谷和良氏が展覧会をやっているというので懐かしさとともに視察に出かけた。
人の作品を観ると勉強になります。自分が見えてきます。同時代の作家のものは特にそうだ。

六本木で別れ、研究室へ向かう。さて、いよいよ自分と対峙する番だ。



2008年9月19日[金]MOA美術館へ


今日しかない!と思い立ちMOA美術館へ「かなと墨跡展」を観に行く。
「かな」は日本人が漢字から発明した仮名文字のこと。「墨跡」は、一般的には、広義には肉筆の文字を意味するけれど、わが国では、禅宗の高僧の筆跡のことを指します。単純に言えばカリグラフィ、つまり書の展覧会です。

→ http://www.moaart.or.jp/

書の話
「書」はいいですねぇ。下手な絵を観るより書の方が心踊るなぁ。魂がス~ッとするよなぁ。
大学生のとき、所属する研究室には「カリグラフィ」という授業があり、書の先生が毎週講義と演習をされ、これがよかったんですねぇ。王羲之や顔真卿などの書の大家を知り、その字を習い、ぼくは興奮したものです。小学校の書道とは全然違う訳です。レタリングとも全く違うんですね。フレットレスな、ノングリッドな感じなんです。活きた文字を教えていただきました。イスラム文字も面白いけれど、さらに自由度があり、その精神はしっかりとぼくの身に沁みついてしまったようです。後に懐素(中国・唐代の書道家・僧。その作風は狂草と呼ばれる草書のなかでも奔放な書体を得意とし、後世に多大な影響を与えた)などを知るともう既にこんな人がいるんだ!と逆に憤りを感じてしまうくらいでした。ぼくの個人的な好みで言えば、今回の展覧会にはありませんでしたが、良寛や光悦ですね。この二人の筆跡に触れるとぼくの全身全霊がガーッとその精神性に無意識の内に向かうのがわかります。この感覚は何でしょうねぇ。特に良寛には手放しでイカレていますね。

ついでに良寛のこと
そうそう、良寛と言えば、良寛の書の展覧会がMIHO MUSEUMで開催されています。「秋季特別展 良寛生誕250年 大和(やまと)し美(うるは)し」という展覧会なんですが、これは川端康成と安田靫彦のコレクションで「二大コレクションと良寛 美と文学のコラボレーション」というサブタイトルがついています。12月14日[日]まで催されています。琵琶湖を南下したところにあるのですが、甲賀忍者の里です。たどり着くまで大変!こちらもMOA美術館と同様宗教団体の美術館です。筆舌に尽くし難いくらいに立派です…といっても筆はもともと立ちませんが(笑)。一度、尾形乾山の展覧会に行ったことがありますが、それはそれは凄かったです。

→ http://www.miho.or.jp/

とにかく、眼の前にあるものたちが歴史上の人物によって書かれたものであるということだけでも何やら心を揺すぶられるのです。空海がいる。一休がいる。秀吉がいる…といった具合に。
今回の展覧会では、豊臣秀吉の消息のひとつにへ~っと感心しました。消息とは書状、手紙のことです。懐素には敵いませんが、それを彷彿とさせる面白いものでした。

かな文字も興味深いですね。平安時代に漢字の草書体から変貌して「かな」が編み出された。この発明は、日本人だからなのか、それともこの発明によって日本的なるものの方向づけがなされたのか…。平安時代に日本的なるものの素地が築かれた感があります。エレガントでデリケートで、それでいて構造的なものを失っていない表現は日本人の五感、否それ以上の感覚をフルに包括しているものだ。
大陸からもたらされたものたちが極東の日本でソフィストケートされる。日本海を渡る時に何かが起こっているのだろうか。
自分は20代の前半にニューヨークで日本的なるものの凄さに気づかされたのですが、それまで欧米人と思って(まさか!ですが)生きてきた自分を恥じました。そして日本人に生まれている意味みたいなことに気がつき、それから俄然日本贔屓になりました。もちろん闇雲にではありません。西洋に敬意を払っての日本贔屓です。

肉筆浮世絵のこと
美術館の最後の部屋には、肉筆浮世絵が展示されていました。勝川春章の「婦女風俗十二ヶ月図」と題された縦長(1:4くらい)の画面の掛け軸が数ヶ月分並んでいました。勝川派は葛飾北斎が10代の頃弟子入りした浮世絵の派として有名ですね。北斎は勝川春朗という雅号でデビューしました。
いつも頭が下がっちゃうんですが、浮世絵師たちの肉筆はなんであんなにうまいんですかね。彩色でも絵具が何の淀みも無くぴたっと施されていて、色彩でも構図でも文句のつけようがないのです。痒いところに手が届き過ぎる。上手過ぎて厭味になるというか、どこか食傷気味になってしまう感もありますが、何に対してなのか別の活路を見出そうとする自分がどこからともなくなぜか出てきて、心取り乱して、汗をかいていたりするので笑っちゃいます。
版画の当時のテクノロジーの粋を極めた表現も興味深いのですが、肉筆に触れると、絵師たちのスキルの高さに脱帽してしまいます。狩野派のような幕府に抱えられるのではなく、庶民の元で活躍するという立ち位置が逆に浮世絵師たちのリテラシーとスキルのアップを余儀なくさせるのでしょうか。人気を博するためのこの高次元の凌ぎ合いに触れるとき、現在の絵師=イラストレーターたちはどこぞ甘いなぁと常に感じるのです。



温泉へ
さてさて、16:30に閉館となり、バスが熱海駅に着くと観光案内所に向かいました。熱海まで来て美術館を観ただけで帰るのはもったいないと思い、温泉にでも入って帰ろうと考えたのです。いくつかそういう施設が駅周辺にもあるのですが、ひとつ面白そうなところを見つけました。岩盤浴と温泉のセットがあるという湯治館「そよ風」という温泉ホテルです。熱海駅から徒歩2分と近場です。アーケード街を少し下った右側にありました。

→ http://www.atami-toujikan.com/

奇跡の岩盤浴と云われる秋田県の玉川温泉で産出される「北投石」をはじめとする15種類の薬石と岩盤浴、温泉のコラボレーションが自慢ということで、温泉に含まれる塩化物成分の効能と、薬石として有名な「北投石」に含まれるラジウムの効能で非常に良質の温泉効果が期待できるとあり、薬石の効能・温泉の効能・遠赤外線効果を存分に活用した、このホテルの岩盤浴は、室温45度なのに驚くほどの汗が排出されるとあります。室内の蒸気は、天然温泉を散水した温泉成分であり、水分補給の水(飲み放題!)はミネラルにこだわり、他の岩盤浴とはひと味違う「本当の岩盤浴」と「天然温泉」の絶妙の組み合わせをお楽しみくださいとある。この自慢の「北投石」はラジウムなどの放射性元素を含む温泉水の成分が長い間に層を成して石化したもので、日本では唯一玉川温泉だけで産出されるものだそうで、昭和27年に国の特別天然記念物に指定されたそうです。世界中でもこれまで台湾の北投温泉、南米チリ、そして玉川温泉の3ヶ所でしか発見されていないそうです。

…とまぁ、熱海に秋田の玉川温泉を持ってきちゃったんですね。何という怪しげなこの施設!90分2,500円。他の温泉と比べるとやや高いなぁと感じはしたものの、岩盤浴は体験したことが無かったので話の種に入ってみることにした。
温泉でかけ湯をして、10分岩盤浴、5分休憩、また10分岩盤浴、そして5分休憩、またまた10分岩盤浴、最後に温泉に入って終了です。岩盤浴後は毛穴が開ききっている状態になっているので、石けんやシャンプーを使用しないようにとある。
いやぁ!実際に体験してみてびっくりです。これは凄い!もの凄いデトックス効果です。本当に驚くくらいの汗が出るってもんじゃありません、噴出です!まさに噴出します!気持ちよかったです!しばらく汗が引っ込まなくてこれが一番困りましたが、それくらい効いているということなんでしょうね。みなさんも一度試してみてください。

…と、長くなりましたがInner Tripといった方がよさそうな熱海小旅行でした。



2008年9月15日[月]その2


その後、駒場東大前にある日本民藝館に向かう。
日本民藝館は、民藝運動の創始者で美学者であった柳宗悦を中心とする同志によって企画され、大原孫三郎(あの大原美術館のね)をはじめとする有志の援助のもとに、1936年に開館しました。閑静な住宅街の一角にある素敵な美術館だ。

今、「韓國の鍵と錠」という特別展を開催している。鍵や錠に興味がある訳ではなく、韓国の持つ特有なフォルムが好きで久しぶりにそれに触れたいと思ったので出かけてみることにした。


上:鍵・錠 下:閂(かんぬき)
上:鍵・錠 下:閂(かんぬき)



韓国の美術に触れるとき、いつも思うことはフォルムの面白さだ。韓国を訪ねたことがないので偉そうなことは言えないのだが、韓国の美の良さは精査された高尚なそれではなくフォークロア調ともいうべき、民画に代表されるようなプリミティブな良さだと勝手に思っている。どことなく朗らかでおおらかで、どちらかというとたどたどしいまでのポップなアートに感じてしまう。

白磁の崇高で宇宙を感じさせるようなストイックな表現のものも大好きですが、やはりこれもフォルムの面白さが際立ってその肌理の妙とともに自分の小宇宙と呼応するからなのです。

そう、韓国のものを観るとき、フォルムを観たいものだから色物よりも無彩色に近いもの、白磁のようなモノクロームなものに目が向いてしまうのです。ポジャギ(日本の風呂敷のように包むのに使う四角い布だが一枚の布ではなくパッチワークでできている)なんかも面白いのですが、色を派手に使ったものよりも、生成りの麻布だけでできたものの方が断然素敵だなと思います。いずれにしても、王朝の美というよりは、庶民の美の力を感じるものに優れたものが多いように感じます。

→ http://www.mingeikan.or.jp/



2008年9月15日[月]その1


研究室の4年生のグループ展に行く。
最近の学生たちは自分たちでよく展覧会を開くのだが、ほとんどの展覧会に行けずいつも申し訳ないなぁと感じています。
ただね、正直、やるからにはもっとスケールの大きいことをやって欲しい。デカイ作品ということじゃなくて、もっと錬磨し深さを感じさせるものを一点でも観せて欲しい。友情深める記念の展覧会におつきあいさせられるのだけはごめんです。展覧会場を訪ねる人に交通費を払わせ貴重な時間をいただく訳ですからね。感動までは無理でも、来た甲斐があったという作品との出会いがそこにあって欲しいですね。もちろん期待するということはよいことではありませんが、期待されるのはうれしいことでしょう。まぁ、でも、やらないよりはやった方がいいと思いますが、できれば気張って個展にしてください。



2008年9月13日[土]


3月に画家ジュリアン・シュナーベル監督の「潜水服は蝶の夢を見る」を観て以来、久しぶりに映画館に向かう。
ショーン・ペン監督の「INTO THE WILD」を観る。つい、僕は監督で観てしまう傾向にあります。

内容はよかったが、もう少し編集をうまくすればもっとスリムになってよかったと思う。映像美的な映画ならではの世界の切り取り方と観せ方が少々弱いのではなかろうか。

でもね、こういうテーマは好きだなぁ。いつもなのですが、映画に関する予備知識をまったく持たずに観ることが多いのですが、この主人公が最後、大自然(野生)の中で死んでしまうとは思ってもみませんでした。彼が人間社会に戻って体験を活かして表現活動に向かったら素敵だったのにと、神の計らいに少々憤りを感じました。とはいえ、このように映画となって人々の前に彼の思想は在る訳ですけれどもね。



2008年9月9日[火]


あと二ヶ月半と迫った個展に向け、気は焦るものの何やら自分の方向性は薄ぼんやりとはしているものの輪郭が見えてきた気がする。何かにつけふと思うことではあるのだが、本来の自分を取り戻さなければと強く今は念う。

個展のタイトルは未だ決まらないが、そこは、あまり心配していない。絵のタイトルをつけるようにもう少し気が高まれば自然にふっと降りてくるだろうと高を括っている。

それよりも重要なことは取り戻すべき本来の自分である。本来の自分と言いながら、果たして本来の自分がかつてどこに存在したのか。本当にそんなやつがどこかにいるのか。この数日、昨年の個展の絵やこれまで描いてきたイラストレーションを含めた絵を引っ張り出してはそんな自虐的な自問自答を繰り返しているのだが、宇宙は、おいそれとは答えを出してはくれない。自分がこれまでやってきたことが何だったのか…。自分の進むべきこれからに向かってその本来の自分に思いを巡らせる日々が続いている。

本来、思索は宗教と同様、実践とともになければならない訳で、考えているばかりではなく、描くことを通してそういったことが体現され眼の前に現れる訳だ。手を休めることなく描き続けること。結局手を動かすことなんだよな…ということは、言われなくてもわかっちょる、わかっちょる。はい、はい。描きますよ、描きますよ。


わずらわしい
せかいのすべてに
ほほえんで
遠くに光る
ゴールを見てる

©hiroki taniguchi